Sam·2026-09-11·12 min read·Reviewed 2026-09-11T00:00:00.000Z

ロンドン金プール:1オンス35ドルを守った防衛線、1961-1968年

政策と規制歴史的物語

1961年11月から8つの中央銀行がロンドンで金を売却し、1オンス35ドルを守りました。1967年のポンド切り下げ後、金プールは4か月で約30億ドル相当の金を失い、1968年3月に市場は国王の布告によって閉鎖されました。

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出典: Historical records

編集者ノート

金プールは、介入が支払能力ではなく時間を買う手段であり、その時間の使い方が金を費やしたのか貸したのかを決めることを示しています。 — Sam

目次

夜明け前に署名された布告

1968年3月15日の午前零時を少し回った頃、数名の枢密顧問官がバッキンガム宮殿に集まり、エリザベス2世女王に銀行休業日を宣言する布告への署名を求めました。当時、英国で公表された銀行関連の非常事態はありませんでした。この布告は数時間前にワシントンから要請を受けて急いで起草された法的な手段であり、英国法の下でロンドン金市場を数時間のうちに閉鎖できる制度が銀行休業日しかなかったためです。前日の3月14日木曜日、買い手はわずか1営業日で推定350〜400トンの金を市場から引き出しており、その背後で金を供給していた中央銀行の損失は、当時の推計で公式価格換算3億5,000万ドルから4億ドルに及びました。8つの中央銀行の代理人としてその金を供給してきたイングランド銀行の金庫は、同じような1日をもう一度耐えることはできませんでした。

ロンドンの金市場は2週間閉鎖されました。4月1日に再開したとき、6年半にわたって世界の金価格を1オンス35ドルに繋ぎ留めてきた仕組みはすでに存在していませんでした。ロンドン金プールはブレトンウッズ通貨秩序を守るために築かれた最も具体的な装置であり、その崩壊は、ドルの金の錨が市場価格ではなく外交上の形式にすぎなくなった時点を画しました。その形式が残っていた期間は、リチャード・ニクソンが金交換の窓口を閉じた1971年8月までの41か月にすぎませんでした。

トリフィンの算術

ブレトンウッズ体制はただ一つの約束の上に成り立っていました。米国は海外の公的保有者に対し1オンス35ドルでドルを金に交換し、他のすべての加盟国通貨はドルに対して固定平価を維持するというものです。金は体制の最終決済資産であり、ドルはその実務上の資産でした。この構造が機能したのは米国の金保有が海外のドル債権を大きく上回っている間だけであり、1940年代後半がまさにその時期で、当時の米国財務省は約246億ドル相当の金、すなわち世界の公的通貨用金の約3分の2を保有していました。

イェール大学に在籍していたベルギー出身の経済学者ロバート・トリフィンは、1959年10月の米議会合同経済委員会での証言でこの問題を提起し、翌年のGold and the Dollar Crisisで詳細に展開しました。世界貿易は拡大しており、その決済を支える準備資産が必要でした。その準備資産は圧倒的にドルの形で供給され、それはすなわち米国の国際収支赤字から生まれたことを意味しました。赤字の一つひとつが体制に必要な流動性を供給すると同時に、増えることのない金保有高に対する海外債権の山を積み上げていきました。トリフィンの結論は、金為替本位制が世界の準備資産不足を緩和できるのは基軸通貨国が自国の純準備ポジションの悪化を受け入れる範囲に限られ、計算可能なある時点で、その悪化が構造全体を支えていた信認を破壊するというものでした(Triffin, 1960)。

1960年にはその交差点が訪れました。米国の対外ドル債務が史上初めて米国の金保有高の市場価値を上回り、その規模は金178億ドルに対して約190億ドルでした。経済学者の警告であった算術は、いまや売買のポジションとなりました。ドルがいずれ金に対して切り下げられると考える者は誰でも、ロンドンで金を買うことでその見方を表現できました。そこでは金が自由に取引され、1954年3月の市場再開以来、価格が建てられていたからです。

1960年10月の急騰

投機が初めて本格的な隙を見つけたのは、米大統領選挙の期間中でした。選挙を2週間後に控えた1960年10月20日、民主党政権が大盤振る舞いをして切り下げを行うとの噂が流れるなか、ロンドンの金価格は1オンス40.60ドルまで上昇しました。公式平価に対して約16パーセントのプレミアムであり、市場が戦前以来目にしたことのない水準でした。イングランド銀行は米国財務省が供給した金で介入し、価格は数日のうちに落ち着きました。

ジョン・F・ケネディは1960年10月31日に書面での公約をもって応じ、当選すれば「現在の水準からドルを切り下げない」と約束し、むしろ「その現在の価値と健全性を守る」と述べました。大統領となってからも、1961年2月6日の国際収支教書でこの約束を繰り返しました。これらの言葉は当面の恐慌を鎮めましたが、その下にある算術には触れておらず、大西洋の両側の当局者は、二度目の急騰がいずれ訪れることを理解していました。この出来事が示したのは、小さく自由で銀行口座さえあれば誰にでも開かれていたロンドン市場が、公式価格の35ドルを虚構に見せる価格をつけうるということ、そして公式価格が虚構となれば、あらゆる外国中央銀行が交換可能なうちにドルを金に換えようと殺到するということでした。

8つの中央銀行とバーゼルの帳簿

解決策は、中央銀行総裁が毎月会合していたバーゼルの国際決済銀行(BIS)を通じて組み立てられ、1961年11月には稼働していました。8つの中央銀行は金を拠出し合い、価格が1オンス35.20ドルを大きく上回りそうになるたびにロンドン市場へ売却することで合意しました。この上限はニューヨークから金を輸送し保険を掛ける費用によって定められた水準でした。米国が負担の半分を引き受けました。残りは、その後6年間のあらゆる決済を規定することになる出資割当に従って、7つの欧州加盟国に配分されました。

加盟国割当比率当初拠出額
米国50.0%$135m
西ドイツ11.1%$30m
英国9.3%$25m
フランス9.3%$25m
イタリア9.3%$25m
ベルギー3.7%$10m
オランダ3.7%$10m
スイス3.7%$10m
合計100%$270m

運営面で金プールは精巧でした。すでに市場の中心的な仲介者としてロンドンの値決めを取り仕切っていたイングランド銀行が8行すべての代理人となり、どの日にどれだけの規模で市場に入ったかを明かさずにグループを代表して売買しました。各月末にBISが勘定を相殺し、各加盟国は割当に応じて自らの負担分を金で決済しました。1962年からは、この仕組みは双方向に働きました。価格が米国財務省の買い入れ水準である34.9125ドルへ沈み込むと、代理人は金プールのために買い入れ、その金は同じ比率で配分されました。ガブリエーレ・トニオーロによるBISの歴史書は、金プールを、中央銀行家たちが協調を、条約も公表された規則もいかなる議会の監督もないまま公衆の目の届かないところで営まれる技術的な職人芸として扱った時代の頂点として描いています(Toniolo, 2005)。

US Official Gold Reserves, 1957–1971 ($bn at $35/oz)

Source: US Treasury / Federal Reserve

機能していた歳月

最初の4年間、金プールはおおむね利益を上げていました。年間約1,000トンで非共産圏産出量の4分の3近くを供給していた南アフリカの鉱山は民間の買い手が望む以上の金を産出し、ソ連は不作の後に北米産穀物の代金を支払うため、1963年と1964年に年間数億ドル相当の金を大量に売却しました。この時期の買い越しにより、加盟国は本来自国の準備を減らすはずだった同じバーゼルの帳簿を通じて、かえって準備を積み増すことができました。

1962年10月のキューバ危機でさえ、対処可能な混乱を引き起こしたにとどまりました。米国の外国為替操作を指揮し、後にこの時期に関する標準的な当事者の記録を残したニューヨーク連邦準備銀行のチャールズ・クームズは、当時のこの仕組みを技術的な成功と評価しました。市場価格は平価から数セント以内に固定され、費用も穏当で、投機筋は金プールに逆らって賭けることが、いずれ正しいとしても高くつくやり方だと納得していたのです(Coombs, 1976)。ドルの台頭を論じたバリー・アイケングリーンの叙述は、同じ評価をより長い時間軸に置き、この仕組みは解決策ではなく時間を買っただけであり、米国の国際収支が必要としながらついに得られなかったのがまさにその時間だったと指摘しています(Eichengreen, 2011)。

悪化はワシントンから生じました。ベトナムでの戦線拡大と「偉大な社会」政策による国内支出は、米国のインフレ率を1965年の1.6パーセントから1968年には4パーセント超へと押し上げ、国際収支赤字もそれに伴って拡大しました。国内の物価上昇は、1オンス35ドルが金の保有者にとってますます厚い補助金になりつつあることを意味し、欧州の中央銀行家たちも消費者物価指数くらいは人並みに読むことができました。

ド・ゴールの離脱

フランスは一度として居心地のよい加盟国ではありませんでした。シャルル・ド・ゴールの経済顧問であり、この時期の金為替本位制に対する最も執拗な批判者であったジャック・リュエフは、この体制が米国に自国の紙で赤字を決済することを許していると主張しました。他のどの国も享受できない特権です。ド・ゴールは1965年2月4日の記者会見でこの主張を公に示し、国際的な交換には「いかなる特定の国の刻印も帯びない」「議論の余地のない通貨的基盤」が必要であり、実のところ「それが金以外のいかなる本位でありうるのか、どうしても見当がつかない」と述べました。

言葉の後には交換が続きました。フランスは1965年から1966年にかけて米国財務省にドルを提示して金に換え、本国へ運び、そして1967年6月には金プールから完全に脱退しました。脱退は共同声明では発表されず、バーゼルの勘定を通じて明らかになり、数週間のうちに報じられました。残る7行は静かにフランスの持ち分を引き受け、米国の負担を約59パーセントまで引き上げたうえで運営を続けました。

日付出来事
1960年10月20日ロンドン金価格が1オンス40.60ドルに達する
1961年11月金プールがBISを通じて稼働、2億7,000万ドルを拠出
1962年10月キューバ危機が仕組みを試す
1965年2月4日ド・ゴールが金本位への復帰を公に要求
1967年6月フランスが脱退、残る7行が割当を吸収
1967年11月18日ポンドが2.80ドルから2.40ドルへ切り下げ
1967年12月〜1968年3月金プールが約30億ドル相当の金を売却
1968年3月14日1営業日で推定350〜400トンを売却
1968年3月15日布告によりロンドン金市場が閉鎖
1968年3月17日ワシントン共同声明が二重価格制を創設
1968年3月18日米国が連邦準備券に対する25%の金準備要件を廃止
1968年4月1日ロンドンが自由な民間価格で再開

ポンドが折れた後

ハロルド・ウィルソン政権は、英国の準備では支えきれない平価を3年にわたって防衛した末に、1967年11月18日、ポンドを2.80ドルから2.40ドルへ切り下げました。投機筋は当然の推論を導きました。第二の基軸通貨が折れるのなら第一の基軸通貨も折れうるのであり、その見方を最も安く持つ方法は、8つの中央銀行が抑え込むと約束した価格でロンドンの金を買うことでした。

買いは翌週に始まり、止まりませんでした。1967年の最後の6週間と1968年の最初の10週間を通じて、金プールは約30億ドル相当の金、すなわち米国の保有高全体の5分の1を超える量を市場へ放出しましたが、その市場はあらゆる介入を、守り手が底をつきつつある証拠として受け取りました。需要は個人顧客のために買い付けるスイスの銀行、中東の買い手、そして自らのドル持ち高をヘッジする欧州の商業銀行から生じました。3月初めには加盟国はほぼ毎日会合していました。3月10日、総裁たちはバーゼルから価格維持の決意を再確認する声明を出しましたが、市場はそれを弱さと読み、翌週には市場を閉鎖させることになる殺到が起きました。

一つの金属に二つの価格

残る7加盟国の総裁は1968年3月16日と17日にワシントンの連邦準備制度理事会庁舎で会合し、価格を守るというより市場を放棄する共同声明を出しました。彼らは今後、公的な金は通貨当局の間でのみ1オンス35ドルで流通することとし、自分たちは「市場から金を買い入れる必要をもはや感じない」とし、また「ロンドン金市場その他いかなる金市場にも今後金を供給しない」ことで合意しました。声明はさらに、特別引出権(SDR)の制度創設が見込まれることに鑑みれば既存の通貨用金の保有高で十分である、と付け加えました。SDRは6か月前のIMFリオデジャネイロ総会で大枠が合意され、1970年に初めて配分された合成準備資産です。

いまや同じ金属に二つの価格が存在することになりました。政府間の決済に用いられる公式価格と、市場が自ら決める民間価格です。米議会は翌日、連邦準備制度に発行券の25パーセントに相当する金の保有を義務づけていた規定を廃止して撤退を完成させました。この措置は対外交換性の防衛のために約100億ドル相当の金を解き放つと同時に、米国の通貨と金を結ぶ最後の国内法上の絆を断ち切りました。

二重価格制は技術的調整を装った白状であり、その論理は当初から不安定でした。ブレトンウッズ期を概観したボルドーとアイケングリーンは、1968年3月を体制の信認が引き返せない地点を越えた瞬間として扱い、それ以降のすべては方向ではなく時期の問題であったと論じています(Bordo and Eichengreen, 1993)。外国の中央銀行は、公式価格の背後にもはや市場がないことを理解しており、ドルを米国の金に換える動きは1970年まで続き、1971年の夏に急激に加速しました。1971年8月の第2週に英国が30億ドルの準備に対する保証を求めたことは、15日のニクソンの発表を招いた直接の引き金の一つでした。

金の民間価格は算術が示唆したとおりに動きました。1968年と1969年を通じて38ドルから42ドルの間に落ち着き、中央銀行が市場から退いた1970年初めには35ドル近くまで押し戻され、交換性が終わると途切れなく上昇して、1973年には100ドルを、ハント兄弟が銀の買い占めを試みた1980年1月にはその時代を覆っていたインフレのなかで800ドルを超えました。その道筋に照らせば、8つの中央銀行は、市場が12年のうちに20倍に付け替えた価格を守るために、4か月で約30億ドル相当の金属を投じたことになります。

金プールが証明したものは、その失敗が示唆するよりも狭く、そしてより息の長いものでした。条約も専従の職員も公的な委任も持たない8つの機関が、バーゼルでの月次の記帳を通じて6年間にわたり協調介入を運営し、それは彼らが守っていた根底の政策が守るに値しなくなるまで機能したのです。中央銀行家たちはこの手法をその後数十年の為替介入へと引き継ぎました。1985年9月のプラザホテルで合意された協調的なドル売りもその一つです。彼らが持ち帰った教訓は、介入が無益だということではなく、介入は時間を買うものであり、政府がその時間をどう使うかによって、金庫の金が費やされたのか、それとも受け取りに来た投機家へ貸し出されただけなのかが決まる、ということでした。

教育目的。投資助言ではありません。